昨日(6/2)にNHKのBSプレミアムで放送された特集番組「ザ・プロデューサー ~ビートルズサウンドを支えた男 ジョージ・マーティン~」がとても面白かったので、久し振りですが、ブログに書いてみます。
ビートルズという奇跡は、あまたの歴史的事件と同じく、まさに出会うべき人たちが出会い、生じた奇跡だと思うのですが、番組はその事件のど真ん中にいた5人のうちの1人である、プロデューサーのジョージ・マーティンにスポットをあてた番組でした。
ビートルズの音楽にマーティンがどの様に関わっていたのかを、かなり深いところまで想像させてくれる内容なのですが、その中で個人的に最も印象的だったのが、マーティンが1つの曲を1枚の絵画と同じように考えていた、というくだりでした。
エドガー・ドガの画集を眺めるマーティン・・・
「ドガは、絵画とは、それを見ている人が自由に解釈するものでなく、画家の意図を反映させたものだ、と言った。
ある意味で私たちは音で同じことをしている。
レコードというのも、それを聴く人が自分で勝手に聴く音ではなく、作り手が聴いてほしい音でなければならない。
音楽も絵画も、人生を映し出す鏡の様なものでなければならない。そこにあるものをただとらえただけの写真とは違う。
だから絵画は写真よりも深みを与えてくれる。」
このマーティンの哲学から数々の傑作が生まれたのだ、ということがビーーンッ!と解った気がしました。
と同時に、何故絵画は写真よりも深みを感じさせるのかということを、逆に音楽家のマーティンの言葉からはっきりと納得させられた気がしました。
確かに絵画のほうが画家の意図が分かりやすく反映されるけれど、写真もそこにあるものを撮影者の明確な意図(例え本人にその自覚が無くても、シャッターを押すという行動に繋がる意図はあると思う)により、構図や瞬間を考えて切り取られた以上は、深みは同等なのでは無いかと思うんだけど、どうかな?
自然界のものに作為的に手を加えた時点で、すべての創造物としては同等なのだと思います。
人に与える共感や感動の差は勿論ありますけどね。
miyamotoさん、コメントいただきありがとうございます^^
ある種の「深み」を感じさせてくれる写真を私も知っていますし、絵画も写真も、作為の産物であるという点において、優劣をつけられるものではないと私も思います。
マーティンの言葉は、当時の多くの音楽プロデューサーが、ミュージシャンの演奏をそのまま録音することだけに注力していたことに対して、もっと聴く人に聴かせたい音作りをするべきだと考えていた、という文脈において語られたものでした。
演奏された音に手を加えずに録音することを写真に例えたのですね。
もしかしたら、当時はまだ写真が現代ほどに表現手段として認められず、単に記録のためのものという認識が強かった背景も関係しているかもしれません。
けれども、対象物の色や形に要素を絞るならば、多くの場合絵画の方が写真よりも「深み」を感じる、ということは現代においても言えることではないかと思います。
代わりに、現代の写真には絵画にない、色や形とは別の要素における「深み」があると言うべきでしょう。
マーティンがドガの画集を眺めている、という点がポイントだと思います。
ドガの絵のもつ「深み」とビートルズの曲のもつ「深み」に、何か近いものがあることを感じますし、この文脈における「深み」という言葉が何を表しているかが直感的に解りました。